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幡随院長兵衛公園

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幡随院長兵衛は、徳川幕府が開かれてまもない江戸で町奴(侠客)として名を成しました。
男の意地と面目を通した死に際の潔さで江戸の華と謳われ、歌舞伎や講談の題材に取り上げられて、現在でも広く知られています。
その長兵衛がうまれたのが相知町久保地区。大正の末、郷土史家吉村茂三郎氏の調査で明らかになりました。
生誕の碑が立てられたのは昭和5年。
除幕式は、昭和14年11月、角界史に不朽の名を残す大横綱双葉山がその綱を引いて行われ、久保の刈田のあとで角力興行が催されました。
題字は、唐津藩主の正統を受け継ぐ子爵小笠原長生公によります。
クレーンなどない当時に、この槍石を台石に乗せる工事は大変なものであったと思われます。
なお、セメントなどは一切用いていませんが、微動だにせず今日に至っています。

■ 幡随院長兵衛とは・・・
幡随院長兵衛の本名は塚本伊太郎といい、江戸に出てきて最初に住んだのが浅草にある幡随院門前町(現在の台東区神吉町)でした。
この地は、京都にある浄土宗知恩院の末寺である幡随院があり、小さな門前町を形成していました。
いつ頃、長兵衛と解明したのか分かりませんが、長兵衛はこの門前町の長屋に住んでいたそうで(一説には、幡随院で修行したことも、幡随院住職の子ともいわれています)、その後同じ浅草の花川戸(現在の台東区浅草花川戸町)の方に住居を移しましたが、幡随院の長兵衛さん、という意味の「幡随院」という通り名はそのまま用いたようです。
幡随院は今でも存在し、昭和15年に同地で焼失してしまいましたが、現在は東京都小金井市の方に移転しています。

■ 長兵衛の出身地について・・・
幡随院長兵衛の出身については、昔よりさまざまな説があり、肥前唐津藩の侍の子という説や、幡随院住職の向導の実弟という説、さらには、幡随院の門守のこという説もあります。
こうした中で大正時代末、東京で長兵衛の銅像建立計画があった際に、唐津藩の寺沢家家臣という説があったため、郷土史家の吉村茂三郎氏に実否の調査依頼がありました。
そこで、吉村氏が調査を重ねたところ、長兵衛は寺沢家の家臣どころか、寺沢氏を敵と狙う旧波多家の家臣の子で、誕生地も相知町の久保であることが判明し、非常に反響を呼びました。
吉村氏の説の大概は次の通りです。
長兵衛の父親は塚本伊織といい、大河野の日在城主である鶴田因幡守勝の家臣で、久保(現在、長兵衛の碑がある場所)に館を構えていました。
ところが、主君の因幡守勝が竜造寺隆信に攻められて城を追われたために、塚本伊織は一子伊太郎を連れて江戸へと向かいましたが、途中で下関で病死してしまいました。
そこで伊太郎は父の遺命で、幡随因の和尚を頼って江戸に上がり、ついには強気をくじき弱きを助ける男の中の男幡随院長兵衛となったといわれています。
非常に興味深い説ではありますが、年代的な齟齬等があることは確かです。
しかしながら、郷土の出身であることを信じたいです。
ちなみに長兵衛のお墓は、東京都台東区東上野にある源空寺にあり、今も多くの参拝者が訪れています。

住所 唐津市相知町久保
電話番号 0955-53-7125(唐津市相知市民センター)
料金 入園無料
駐車場 なし
アクセス JR筑肥線 肥前久保駅から徒歩1分
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